昭和49年04月18日 月例祭
今朝からの御理解に、「神に会いたいと思えば、庭の口を外へ出て見よ、空が神、下が神」という御教えに基付いて頂きました。お道の信心を頂いて、私共は何を対象に祈ったり拝んだりしておるのか。この神様は大体どの様な神様なのかと。それを教祖様は、「空が神だ、下が神だ」というふうに、いわゆるお道の信心でいわゆる神感、金光教では神をかく持つと言う事。その事があぁそうであるかと判って、ただ天地を遥拝する、拝むだけで良いと言う事ではない。
実感として成程天地は神だなと、その大天地に対する所の人間氏子、小天地である私共がです。その神と人間との係わり合いに置いて、こういう心が向上すろ所に、こういうおかげが受けられるというものを、頂いて行かなければ、いわゆる空頼み的な願いになって来たり、又空ごとの神様になって来たりする訳です。その御理解を今日はまぁ大変角度の違った、何と申しましょうかね、まぁ都々逸づくしという訳ではないですけれども、まぁ都々逸の文句を三つか四つぐらい出しての。
まぁ合楽ならではという粋な御理解です。実に調子の良い御理解です。私その御理解を頂いてから後に、あら今日はあんな事も頂いておったなと思うて、もう終わってから思い出さして頂いた。成程この事も話しておいたら、今日の御理解をもっと判らして頂くんじゃったのにと思ったのですけれども、もう済んだ後で御座いましたから。それを今晩まあ皆さんに聞いて頂こうと思うんです。
私の御心眼に、皆さん御存知になる方もあるかも知れませんが、お芝居に「野崎」という「野崎村の段」というのがあります。お染久松というあのお芝居。そのそれがねモウ文楽の人形浄瑠璃での「野崎の段」の場面を頂く。それをよく見せて頂いておりますと、いわゆるおみつですね。あのお芝居中心はおみつです。そのおみつが六代目菊五郎の顔なんです。この頃八代目を襲名しましたあれではない。名優と言われたあれは六代目です。六代目菊五郎のおみつは昔からあったんです。
素晴らしいおみつだった。そのおみつがアノウお芝居で、人形劇というのがありますよね。人間を操り人形のふうにして踊るという、いわゆるすさものなんです。そういう場面を頂いた。是はまぁ六代目菊五郎と言う事は、まぁ徳を受けた人。または菊五郎というのは、まぁあのう合楽の信心の内容が菊の花でなからなきゃならない。いわゆる合楽の信条のように言われておる。自分の心の中に勿論、菊というても喜び久しい。いわゆる喜びが与えられておらなければならない。合楽の信心の中心である。
ですからもう是は私は私が受けとる訳じゃないけれども、徳を受けよということであると同時に、菊の信心の中心ですから。私と私の事を、又はそのなしておる役柄がおみつという、光というですから私の事じゃろうとこう思うた。甘木の先代がお世話になっております。「私は人形だ。天地の親神様が人形使いだ。神様がいわば右に行けと仰れば右に行き、左に行けと仰れば左に行く。もう神様の仰せ通りに仕っておるのだというふうに仰られたと言う事です。そこでです金光様の御信心の偉大さとか太さと言う事は。
改めて感じさせて頂いたんですけれども。ならいくら金光教の信心を、天地金乃神様が判らしてもろうて、その天地の徳を金光大神のお取次によって頂くと言う事になっても、それはねもう一人一人に違うんだと言う事。あちらの先生の教議じゃならんと言う事じゃない。甘木の例えばこの野崎なら野崎というお芝居をするんでもです。先ず第一のそのおみつがいる、そのお父さんである所のきゅうさくがいる。又は久松を恋する所のお染がいる久松がいる。家老達がいる船頭がいると。
それがいわば全部がねスムーズな演技をしてそこ、始めて野崎のお芝居が終わる。どんなにおみつが素晴らしかっても、きゅうさくがおかしかったり、お染が悪かったりしたんでは、もうお芝居はつぶれてしまう。だからそれぞれがやはり神様任せの相方にならなければいけない。それぞれがいうならばリズムに乗った行き方にならなければ、その野崎の一段がつぶれてしまう。お芝居が潰れる。
だからきゅうさくの役をする人は、やはり付け役のきゅうさくのお役が見事に成就しなければならないし、おみつはおみつ、お染はお染の役柄というものが出来なければならない。それにおみつがお染の様でなからなければならんところから、またはきゅうさくの様でなからなければならんと言う事は決してない。いわゆる神様が操っておられるのですから。お染はお染らしく演じられなければならない。きゅうさくはならきゅうさくらしい演技をそこに現していかなければならない。
ですから甘木と例えば久留米と合楽というても、もう違わなければいけない。例えばなら甘木合楽又は久留米というもので、金光教が出来上がっておる訳ではありません。玉水もあれば福岡もある小倉もある訳なんです。そういう一切の人達がいうならば神様任せになって、踊らせて貰う所に、金光教の素晴らしさが生まれて来る訳です。だから是はもう、合楽は合楽の独壇場だと言う事が言えます。いよいよ合楽の独壇場。最近では中央である御本部であります所の、合楽の信心に皆さんが色々感心を持ち出して来た。
今度子供たちがあぁして御本部から御大祭に帰って来ておりましたが。あちらの方から言付けがあった。それは「合楽の先生のお話をテープに収めてあるならば借りて来てくれ」という事であった。「二、三巻でもいいから借りて来てくれ」という。だからいうならばきちっとした、誰が聞いてもおかしくない誰が聞いても判る様な風に、又やり直して話を入れ直して持って行って貰う手もあるけれども、そういう手の込んだ事はしたくない。もう神ながらのもんだなけらにゃいけん。
ちょうど栄四郎がその事をいって来ましたから、私が何日から何日までの間のとをあげたらいいじゃんの、何時からでもかまわん。ですからちょうど十四日から十六日の御大祭の私の説教。それからその翌日の朝のまで渡した。もう全部テープ一巻に収めて持って行きました。それはまぁ初めて聞く人は聞きずらい事であろうと思う。文章にしても中々読み辛い事であろうと思う。又は方言丸出しですから、解らない所もあるだろうと思う。
それでもやはりおかげの泉を十っぺんも繰り返して読ませて頂いておると、おかげを受けると言う事が解る。だから先生の話を直接聞いたらもっと何か素晴らしいものがあるに違いないと。それはもうつくづくとこの頃は今のは教徒社ではありません。図書館の方でそれを扱っておる。ですから合楽のお話を聞きたい、テープはないかと言われる人達がこの頃段々増えて来た。
それで「まぁぜひ」という事だったそうで御座いますから、まあ荒削りながらただ朝の御理解なら朝の御理解を皆さんに聞いてもらうのを、その侭の物をもう送らせて頂いておる様な訳です。ですからこの頃の御大祭を頂いてから、ある教会の総代さんがご願いなさるんです。「今日は本当に変わったお話を頂いて有り難う御座いました」と。それは本当にそういうておられる。とにかく合楽の話は変わっておるとしか聞こえないのである。いうならば、金光教の話ではないようである。
けれどもやはり真の金光教教祖であり、お話は天地金乃神様の御恩徳であり、そして私共がおかげを受けて、お徳を受けるお話ばっかりなのである。だからやはり何処迄もお話は合楽流であり。だから合楽流に終始し、合楽の信心を判らせて頂くところから、なら合楽で頂いておる様なおかげが頂かれる。皆さんの信心においても同じ。そこでなら皆さんの信心がです。今朝の御理解に私が御神前で頂いたのが都々逸の調子です。そして青江美奈とかなんとかいう歌手が歌っております歌の歌詞を頂くんです。
「会えば別れがこんなに辛い、会わなきゃ夜が眠られぬ」。「会えば別れがこんなに辛い、会わなきゃ夜が眠られぬ」という、まぁここまでが都々逸の歌詞になる。いうならば恋いの心というか、もう本当にそのままズバリに表現した言葉だと思うですね。会えば別れがこんなに辛い、というて会わなきゃ夜が眠られないという程しのものがです。私と皆さん、言うなら神様と皆さんとの間にです。交流して来る、それが流れて来る。例えば私が何時もここに三時半に出て天地を遥拝した時にです。
いうならこう合掌さして貰うこの遥拝する、隅々の此処からです、ずうっと何かが心に入って来る思いがする時がある。体全身が電気に撃たれた様に感じる事がある。是は私が天地と交流しておる、天地と通うておる。天地のそういう大電傳という中には大何と申しますか大きな電気があるのである。それを又はエレキとも言うです。天地のエレキという物がです。もうエレキを此処に感じ、エレキをこの五体に通うて来る程しのものを頂いた時に、初めて神の大恩が判って来るのであり。
神のおかげを知ればもう身代も出来、一年勝り代勝りのおかげが受けられるというおかげになって来る。ただその神様が判らずに、ただおかげを受けるというだけではね。天地の大恩と言う、言わば「神に会いたいと思えば庭の口を出て見よ空が神、下が神」と仰せられるけれども。それなら神様、ここを拝んだら神様を拝んだ事になったというと、拝んだ事になろうけれども、交流してないという。だからそういう天地との先ず交流する前に、先ずは金光大神と交流し。
先ずは親先生と交流し、段々交流して来る時に、もう恋愛感情ではないけれども「会えば別れが」ということになり、「会わなきゃ夜が眠られぬ」と言う様な、言うなら情感というものがです。そういう感動が瑞々しいまでに、私と皆さんとの中に交流して来る。今日も萩の山口さんちゅう方からお届けがあった、もうおかげを受けたという事においてはもう本当に素晴らしいおかげを受けておる。大病をしておかげ頂いてやれやれというておる所に、もう合楽の事がもうしきりに思われて思われてしかたがない。
それで昨日あちらの萩の教会の総代さん。ここにずっと参ってきますね。胃がんでおかげ頂いた石川さんの所におかげを頂いて、もう私はもう心底合楽にお参りさせて頂いて嬉しゅうして堪えんごたる。今日は合楽の大祭が有りよるが、どうでも大祭のお参りがある事情で「とにかくあなたの骨はもう年取ってしもうてから枯れた事なっとるからポリポリ折れるから動きなさんな」と医者が言われる。骨が枯れるんですね。枯れればそれこそ折れる。それで今折れとるそうです。そして一部始終合楽でおかげを頂いた。
一番初めに椛目の時代におかげを頂いた時に、今そこに来て頂いた善導寺の原さんといわれる方達がですね、今あのう合楽の山口組と言う事をご神前で頂きなさったげな。あなたは小郡の山口さんでしょうと言うた。それが始まりどうした時に此処に参って来るじゃろかと言うて、それからずっとお参りさせて頂いて、もう大変なおかげを頂いておる。それから大変なおかげを頂いておる。ご主人は萩の教会に毎朝日参をされるけども、ただ参られるだけでそのう、普通は今日もお参りしたけれど。
今日に限って私はね、ちょうどそこにのっぴきならない、お客様ががあったもんですからね、そのう私がお付き合いしなければ出来ないお客様ですから。それからそのう頂いた御神酒を頂いた。それで私そっちから若先生にお願いして休まして頂いた。それでなんとなくそれで若先生対応で二時間くらい掛かった。「それでもちょっと親先生にお目にかかっておかなければならん」と言うて、此処におる間に御理解を頂き、お参りして来る人達の話を聞いてまぁ大変なおかげを頂いた。
そして私が此処へ出て来た。神様がめったにない、そして又いまがたここにはおかげを頂かなければならん。是はどうでも矢張り修行がそこに伴わなければならない。神様に私お取次さして頂いたら。あのお寿司なんかを取りますと、此の位ばっかりのビニール袋の中に、醤油の一切れ持って来るです、あれのもっと此の位大きいんです。そしてねこの醤油を掛けなければ食べられないという物を頂くんです。もちろん修行この醤油という事は苦労という事、修行という事。
この例え二時間でも御広前において、御広前で修行させなければおかげは受けれん。それで私が二時間も出て来なかったんだ。是でおかげを頂くよというてもう帰られた。そこでここの四時の一巻の御祈念も頂いて帰りました。そこへちょうど上野先生がちょうど大祭の翌日から具合が悪い、もう今日具合いが悪くて休んでおる。月次祭だからおかげを頂く様に、まぁ御用のおかげを頂いた。
「もう御用も出来せんで済みません」ともう、済みませんじゃなかばいというて、上野先生考えて見たら昨日のごと、その前の日が大祭の日であったらもういよいよ、大祭にも御用する事が出来ません事じゃった。大祭にはあの様に元気でおかげを頂いて、明くる日から体がそこここ痛み出した。起きられん様になったと言う事は、神様のご都合に違いがない。神様が求めて御座る修行に違いはない。
それこそさっきの醤油じゃないけれども。苦労ではあるけれども醤油ではあるけれども「あれはむらさき」というてね、あれ醤油の事を一名「むらさき」という。むらさきというもう心配はいらない苦労なのだ。ここが痛むそこが痛む、動かれん様にあるというけれども是は上野先生、神様に御礼を申し上げるより外にはない。御礼が足りん御礼が足りんのだと言うてお話しました。
神様だからおかげを下さる為にもね、修行がいるんです。それはね例えば今度の御大祭には、何時もいろんなおかげを頂いた人達があります。そらそうでしょうあぁいう神な柄の御大祭、あぁいう神な柄の有難いみんなの思い、真心というものが集結した。そういう心が実現化してしまう。そういう中におるのですからおかげを頂くはずです。日田の坂本さんなんか後んねきから、奥さんが参って来ておりますが、一週間も御縁を頂か無かった。毎日毎日こんこんと眠り続けるばっかり。
時々目をぱちっと開けるだけ。「何か食べないか飲まないか」というても、お水を飲んだだけで又すやすやと眠ってしまうと様な状態。ちょうど御本部参拝の時に、参拝する様になってたけれど、あんまりひどかったからお参り出来なかった位でした。御主人が。あのバスを出してして下さった方が。そしたら医者に掛ってもよかろうかと、するならね安心を引く為に、良うならしてもらう為じゃなくて、安心を引く為になら見せてみてご覧と言ったら、御主人が此の人は何処うもどげぇんもどうもない。
けれどもただ眠って眠って眠り続けとる。一週間。食べない。それでいよいよ大祭だけれども、もうとにかく途中から悪くなったなら、すぐお父さんとおかげを頂くだろうから、途中からハイヤーを呼んで送って下さいという約束でお参りされた。段々お祭が初めてのお祭ですからもう感動が湧いてきた。お祭が済んだお説教を頂いてもういよいよ有り難うなって来た。もうそれこそ泣くまいと思うけれども、よそから見よったらおかしい位に涙がこぼれる。そこへお弁当が配られた。
開けたとたんに食欲が出た、もっともらえんじゃろうかといれるごとおかげを頂いた。帰ってから「お母さん、あれば作ってくれ、是ば作ってくれ」ってから料理の注文した。それからまた夜食を頂いて、明くる日休まして頂いて明くる日から顔色が良くなり。おかげで眠るとも平常になり、食べるとも平常になった。全く合楽の金光様っちゃ有り難い事じゃ。とにかく御大祭のときにゃ思うただけでも、お弁当だけでも食べにゃいかん物というて、人に話す様なおかげを受けた。
お弁当だけでも食べる位な、やはりおかげを受けるというおかげもあるんだ。けれどもなら今日私がいうのは神の大恩が解る「空が神、下が神」と言われてもです。あぁそうかと拝んだだけでは交流しない。それではおかげにならない。金光教の拝む対象は、天地金乃神様という事はもう、この天地がそのまま神様だと判っただけではいけない。その神様と、冷たいなら冷たい寒いなら寒いが、こう通うおかげを頂かなければならない。交流するもんじゃなからなければならない。
その為にはです「思い出すよじゃ惚れよがうすい、思い出さずに忘れずに」といった様なです。思い出すのがいけない様な物が、段々出来て来る様なおかげをお互い頂いて行かなければいけない。そこに信心が楽しゅうなる。そこに信心の有難さがある。「先生のそばにおるというとろくな事じゃなか、また御用をいい付けられる」という様な事では、おかげを頂いてもそういう事にはなって来ない。いわゆるね神の大恩を知れば、身代もでき子孫も続き一年勝り代勝りのおかげを受ける。というおかげにはなって来ない。
そこでです。私共がそういう一番おかげの頂ける道、一番身近に頂けれる道は、親先生任せになってみるという事なんです。合楽では。親先生任せになるという。なって痛い目をする事もある。なった為に損をする事もあろうけれどもです。さそこが惚れとる。それこそ改まりこの様に磨く様になっておるから、損とか徳とかは問題じゃないで交流する。「神様が手を上げろ」と仰っしゃりゃ、手お挙げ「足を上げ」と仰っしゃりゃ、足を上げなければならんのに。
「神様が手を上げ」と仰っしゃりゃ足どん上げ。「手ば上げろ」と仰っしゃりゃ、足どん上げる。是じゃもうそれこそ野崎の一段が潰れてしまう。それこそ名優ね尾上菊五郎がです。それこそ神様まかせに、いかにおみつの演技を素晴らしゅう致しましても、お染が悪かったら詰らんのであり、きゅうさくが任せきらない信心ではです。合楽全体が立ち行かんということになる。そういう言わば身近な。
昨日合楽会でもうその日の次から、その御大祭には合楽のお世話役の方達が、お米をここから三升そこから五升というふうに、まぁ時々はお参りされるという程しの、まぁ御信者とまではいかんでも、まぁ時々お参りなさるという人の、家を回ってお米を御供なさる。だからこの前来た時は、「もう此処でこりを積ます様な事があっちゃならんから、お止めになったらどうですか」と、私が会長さんにいうた。中村さん。
そしたら中村さんが言われるのに「それでも親先生、あの人達もおかげを受けなければなりませんから」といわれる。「いや、あんたがその位な思いであるならば、おかげ受けなければならんから、ならそうさせて頂こうか」というて、そうなさっておられる訳です。けれども私はやっぱり人情を使うんです。あぁいう大祭な近所の人達だから、いうならちょっと参って来たとしたら、なら親先生の所へ寄って、「あぁようお参りさなったですね」というて挨拶の一つも大体するのが本当だと思うです。
普通からいうたら。けれどもそれを出来もせんし、出来なかったから。帰りがけに「皆さんお会いになったら、まあ不行き届きの事もあっとろうけれどもどうぞよろしく言うといて下さい」というて。そして此処で御神前で最後の御祈念をさせてもらいよったら、今私が合楽の人達にね、いうた事に神様がお叱りを下さる様な感じです。「お前、ばかじゃある、いらん事ばかりいうちから」といった様な感じなんです。なんでその御礼ばいわんならんのか。そ
れはね折角彼達がおかげを頂く、そのおかげをまたこちらへ取り戻す事になるぞという訳なんです。それがどういう事かというと、お知らせにですね、「桜切るばか」と頂くんです。昔から申します「桜切るばか、梅切らぬばか」という。桜は切ったら枯れてしまう。梅は切らなければ枯れてしまう。だから例えば私が昨日合楽の方達にいうた事は、桜切るばかの方であった。けれども概ね私が皆さんと私の場合なんかは、私が皆さんを梅と見立てて皆さんを切るのです。ごんがら坊主に成るまで切るのです。
久保山先生の庭にあるあの、しだれ梅があるのを皆んな知っとられるですか、大きな朴があります。それがまだ惜しいというくらいなと時分に、あれごんがら坊主に切らなければ、あぁいう長い長い枝は下がって来んて明くる年は。惜しか位な事では。そういう切られるね、それこそ「葉が出りゃ摘まれ芽が出りゃ刈られ、それでも茶の木に花が咲く」というように。花が咲くおかげを頂くためには、摘みもしなければならない、切りもしなければならないという事なんです。
それを切られるから、そばに寄り付かんといった様な事ではです。何時まで経っても本当のおかげは交流して来ないのです。そういう本当のいわば本当なおかげを頂かなければです。本当に天地を拝むという、いう様な心になる事はない。拝んだ後に人として天地のいうならエレキと私どもの五体の流れているエレキとが、一つになって交流するといった様な働きになって来ないです。そういう様なおかげをです、皆さん頂いて頂く事を願いとなさらなければいけない。
天地金乃神様のおかげを頂くという事は、天地とそのまま金光大神の媒介、金光大神の取次によって、天地と何時も交流しておる。そこにです「思い出すよじゃ惚れよが薄い、思い出さずに忘れずに」。それこそじっと目を瞑って思いよったら。思い出したらもう胸が痛うなってこっちからこちらへ、もう痛い程に受けて通る様な痛さを感じる様なね。神様を思える様に一つなって見られたらどうでしょう。またそういう信心を願われたらどうでしょうか。いよいよ信心が有り難い事になって来ると思うですね。
どうぞ。